バレンタイン。それは自分が好意を抱いてる相手にチョコレートを贈るイベントだ。
小学生の頃から好意を抱く相手どころか友人すらまともに作れなかった丈にとってはあまり縁のない話で、毎年机の上に母からの贈り物が貰える程度のイベントだった。
母親なりの気遣いだとは思っているが、毎日休むことなく患者の相手をしている母が限りある時間を使ってチョコレートを買ってきてくれたことを考えると、正直「そんなことするぐらいなら休息をとって、むしろ自分自身にチョコレートを買えばいいのに」なんて思っていた。
それぐらいに、丈自身はバレンタインに縁がないと思っていた。
そうだと思っていた。
「はい、これ」
参考書を広げている机の隙間にポン、と置かれたのはかわいいウサギのイラストが描かれている市販のチョコレートだった。視線を上に向けるとウサギのイラストがプリントされた袋を抱えたクラスメイトの女子がニコッと笑っていた。
「え?」
「今日バレンタインだから、皆に配ってるんだ。バレンタインのチョコが貰えて、おまけに糖分が取れて、一石二鳥でしょ?」
「あ、あぁ。まぁ、そう、ですけど」
「気にせず貰って」
思わず変に敬語で喋ってしまった丈のことなど特に気にする様子もなく、女子はサッと別の席に座っている男子の方へ行ってしまった。
机の隅で笑うウサギのイラストと目が合う。まさか、母親以外の人にチョコをもらうことがあるなんて。
もちろんこのチョコに対して何の意味も込められていない。むしろ「バレンタインだからとりあえずあげるか」みたいな軽いノリのような気もするし、このクラスの中に本命がいて、丈はあくまでカモフラージュで渡された一人でしかないのだという解釈だってできる。
とはいえ、それでもバレンタインの日に同世代の人からチョコをもらったのは初めてで。
呆然としている間にチャイムが鳴り響く。丈は慌ててそのチョコをカバンの中に放り込んだ。
***
学校、塾と今日のやるべきことを終えて外に出たころにはすっかり暗くなっていた。少しばかり温かさを感じる夜にマフラーを巻いて足早に家へと向かった。カバンの中に放り込んだチョコはまだ食べていない。それどころか参考書や文房具に埋もれて砕けてしまわないようにポケットの中に入れてしまっている。寒さに耐えるようにポケットへ手を滑り込ませれば、フィルムの感触がそこに残っていた。
彼女が丈に対して何一つの感情を向けていなくとも、丈にとってはその枠に入っていた事実が嬉しいのだ。
ふと下に向けた影が一つから二つに増えて重なったと同時に、横からドン、と押されたような感触に触れて軽くよろける。驚いて視線を向けた先にはヤマトが立っていた。
「や、ヤマト…!?」
「よ。…ってなんだよその顔」
「急に押すなよ…びっくりするだろう?」
「悪かったよ」と言って笑うヤマトの背中には黒くて大きなベースケースがあり、左手には白い紙袋の中に色とりどりの包装に包まれた箱や袋が詰められていた。
その紙袋を見て丈は思わず目を見開いた。深く考えずとも目の前にいるのは顔が綺麗で、金髪蒼眼の美少年だ。おまけにバンドのボーカルとして活躍しているとなれば、今日という日にどれだけの支持を得て、どれだけのチョコを貰えるか分かっていた。
そんな丈の視線に気づいたヤマトが苦笑いを浮かべる。
「こんなに貰っても食べきれねぇんだけどな。正直」
「まぁ、そうだろうね・・・」
「ありがたいけど毎年悩むんだよな。このチョコどうしようかってさ・・・タケルとか父さんに手伝ってもらったりするけど、そう簡単に無くならなくてよ。最近じゃタケルももらってくるから毎年大変でさ」
「そ、そっか・・・」
兄譲りの綺麗な顔に、兄とは違う誰にでも優しい社交的な性格をしているタケルのことだ。例え本命じゃなくても人付き合いで色んな子から貰いそうなイメージはある。今まで全く縁がなかった男と、縁がありすぎて困っている男が並んで歩いているのもなんだか不思議な気分で、誰も悪くないはずなのに少しチクリと心が痛む。
「丈は貰ったのか?チョコ」
「え?あ、あぁ、まぁ」
ポケットに触れるフィルムがかさり、と音を立てる。一瞬迷ったものの貰ったものを無かったことには出来なかった。
「一応。でもヤマトが貰ったものほど豪華でもないし、ただの市販のチョコだよ」
「そ、っか」
ポケットから取り出した小さなチョコをヤマトに見せて笑う。卑下にするつもりは無かったのに滑るように出てしまった言葉が跳ね返って少し痛い。そんなつもりじゃなかったのに、なんて思っても、渡してきたあの子はそんなつもりでも構わないのだろうに。
「・・・あのさ」
ヤマトの手が丈の腕に触れた。思わず立ち止まって見たヤマトの顔は何かを隠すように視線を落とした。何かを言おうと口を開く前にヤマトはカバンを漁り、茶色の箱を取り出して黙って丈に差し出した。
「・・・?」
「これ、やるよ」
「これは、チョコ・・・?」
「おう。今日、渡そうと思って」
夜道であまり見えなかったが、手のひらサイズの小さな茶色の箱に黒いリボンでラッピングされている。まさか、友達に渡すためにわざわざこんな凝った事をしたのだろうか?丈だけ違う学校に通っていることを考えると大変だっただろうに。
「ありがとう。ヤマト」
「おう」
「これ、もしかして皆にも同じことしたの?ヤマト、バンドで忙しいのにわざわざこんな凝ったラッピングまでして・・・」
「ちげぇよ」
丈の言葉を遮るようにヤマトが言い放った。驚いてフリーズした丈とは反対に、ヤマトは真っすぐ丈を見つめていた。
「お前だけだよ」
「・・・僕だけ?」
「おう」
「・・・なんで?」
「な、なんでって、お前さぁ・・・」
何でわからないんだ、と言いたそうな不満と、困惑と、照れくささが混ざり合った顔でヤマトは頭を掻いた。そんなヤマトと、丈の手に握られている〝丈だけのチョコレート〝。
まさか、そんな。そんなわけが。
2月の夜なのに首から上が暑くて仕方ない。手の中に握られた茶色の箱が示す意味を理解したようで、理解していいのかもわからなくて困惑している丈にヤマトは呟いた。
「返事、待ってるから」
その顔と、その声で、丈のバレンタインはヤマトで上書きされてしまった。