馬と鹿

「兄さん」
夕焼けが差し込む薄暗い部屋の隅にうっすら映る膨らんだシルエットは遠くから呼びかけたぐらいでは動かない。今日は珍しく布団を敷いて寝ていた。あんな狭いところで寝なくてもいつも布団で寝ればいいのに、と思いながら近くまで寄ってしゃがみ込んだ。
布団で全身が器用に収めては、小さくゆっくりと呼吸を繰り返す。押入れの中じゃないのだからこんなに縮こまる必要なんてないのに。
「兄さん。起きて」
片手で肩らしきものを掴んで揺さぶれば体が仰向けに倒れ、布団の隙間からシンの顔が現れる。目の下に刻まれたように濃く残る黒いクマに剃り残された髭の跡、少し荒れた肌、そんな一つ一つの負債を抱えた姿は起こすのも可哀そうなぐらいに疲弊しているように見えて仕方ない。このままゆっくり眠らせておきたいのに、こうやって起こしてあげないと一生目覚めないような気がしてしまう。忙しくなってくると真っ先に衣食住を疎かにするような兄だ。こうやってご飯の時にはおこしてやらないと、このまま放っておけば何も食べないまままだ出かけていくのだろう。
「早くしないと冷めるんだけど。ねぇ」
たまにはお前が作ってくれよ。そう言ってたから部活が終わった後に疲れてても作ってやったんだ。しかもシンが久しぶりに食べたいと言っていたものを。
そんな事を覚えてるかどうかさえ、分からないけれど。
やや乱暴に揺さぶり続けた結果、唸り声をあげながら捲れた毛布を戻そうとする。すかさずその手首を掴むと、眉間にしわが寄りまくった視線でシュウを見上げる。
「飯。できたんですけど」
「・・・もう少しマシな起こし方なかったの」
「マシも何もこうしないと起きないだろ」
布団の中から伸びた細く白い手がシュウの頬に触れる。
「白雪姫みたいにさ」
「ばッ」
馬鹿じゃねぇの。
そう言いかけて真っ赤になったシュウの首元に手を回され強引に引き寄せられる。影を落とし暗くなった視界の中、唇に触れた生温くて少し痛い感触が伝わる。鼻に懐かしく心地よい匂いを感じた時にはもう反射的に腕を振りほどく勢いで体をのけ反っていた。
起き上がって呑気に欠伸をするシンの顔は影に隠れて見えない。でも、シュウの方を見て笑っているような気がして、だとしても何も出来ないまま睨むことしかできなかった。布の擦れる音と共に立ち上がったシンは動けないままでいるシュウの頭を軽く撫でると、呼ぶこともなく部屋を出ていく。
互いの忙しさ故にあまり会えてなかった欲求不満のせいか、いつもは食われる立場である故の反撃か、それともただの悪戯なのか。
そんな兄のお遊びに容易く乗っけられ、キス一つお見舞いされて何も出来なかった。反抗的な態度を取っていながらも、食らう立場でありながらも、結局は兄には勝てない。
「・・・馬鹿じゃねぇの」
部屋の家具もシュウ自身も塗りつぶすほど強く差し込む真っ赤な夕日のせいで、シュウの表情は誰にも分らなかった。