あの日、俺は見た。
8月1日。太陽が高く昇って雲一つなかったはずの青い空は一瞬にして灰色の空になって、いきなり山奥にタイムスリップしたように遠くが霧で包まれた。
その瞬間、平和だったはずの街が一瞬にして地獄へと変わった。建物が一瞬にして壊れて、沢山の人が逃げていた。小学生だった俺はその中に入って必死に走って逃げた。足が絡まって転んでしまいそうになりながらも必死に走った。
突然、大きな地響きが背後から襲った。思わずよろめいて転んでしまった俺は、そこで見たんだ。
図鑑でしか見たことなかった大きな恐竜が目の前に立っていた。だけど、図鑑で見た恐竜のような濁った茶色ではなく、オレンジ色の体に青色の模様がついていた。その色は自らの存在を、強さを誇示しているようだった。
夢かと思った。知らない間にゲームの世界に迷い込んでしまったのだろうか。そんな不可解な事態も呑み込めてしまえるような衝撃的な光景を目を焼き付けて、脳に刻まれていく。
「行け!グレイモン!」
そして、少年の声が響いた。
—————グレイモン
そう呼ばれた巨体の恐竜は一人の少年の声に答えるように前へと進んでいく。その後ろを青い服を着た、あの時の俺とさして変わらない年の少年が走って追いかけていった。
俺はただ、その後ろ姿を見ていることしか出来なかった。
「———光が丘でよかったですか?」
「はい。お願いします」
夏の太陽によって火照った体を車内のクーラーが冷やしていく。東京は交通網が広いおかげでお金さえあれば電車やバスを使って自由に移動することが出来るのは便利だと思うが、その場所に向かうのにかなり歩く必要がある。その上、人口密度が多いから時間帯によっては席に座れることが少ない上に人の多さに圧倒され、結局は地元の方が良かったと感じることが多い。
こんなにも空が青い日はいつも、あの日を思い出す。
8月1日。俺はあの日、幻を見た。
一瞬にしてめちゃくちゃになった街の中で戦う大きな怪獣と1人の少年の姿を。
俺はあの日の出来事を嘘だと思いたくはなかった。あの時感じた熱も、振動も、音も、鼓動も、嘘として片づけられるようなものじゃなかった。何度も話しても、お小遣いを貯めてあの街に行っても、そこには俺が、皆が当たり前に見てきた「日常」が流れていた。
あの日のことは誰に話しても信じてはくれなかった。あれだけ大規模なことになればニュースになってもおかしくないはずなのに、誰一人として知っている人はいなかった。
そして、いつしかそれは俺の中で幻になってしまった。
今思えばあれは妙にリアリティのある夢だったのかもしれない。昔乗ったアトラクションを大げさに感じているだけなのかもしれない。それを見たのは十数年前の話だと思えば、そう感じるのが自然だった。あの惨状を誰も見ていない、ニュースにもなっていないのなら尚更だ。大きくなって俯瞰して物事が見れるようになって色々と辻褄が合わない点が増えていけば、自然とそう思うしかなかった。
「今日は暑いですねぇ」
「そうですね・・・」
運転ドライバーのおじさんが穏やかに話しかけてくる。チラリと外の風景を見るとこんな猛暑の中でも歩いている人や走っている子供が沢山いた。
「今年も最高気温は記録更新らしいですね」
「でも、毎年言ってますよね」
「そうなんですよねぇ。年々気温が高くなっちゃうし、最近じゃオーロラが見えたとかも」
「オーロラ?日本でですか?」
嘘のような話に目を丸くすると、ドライバーは笑って答えた。
「そうらしいですよ。お台場の夜空にオーロラが見えたらしいです。僕も同僚に言われた時には嘘だと思ってたんですが、後日ニュースになってたりしてて。お兄さん、あんまりニュースとか見ない人かい?」
「え?あぁ、まぁ」
ははは、と笑いながら空を見上げた。オーロラは限られた地域の中で、雲一つない晴天だった日の夜に人口の光が無いところで起こる。昔、テレビでオーロラを見るために海外ロケをしていた番組を思い出したが、その条件の中で通じてるのは雲一つない晴天しかない。
(そういえば、あの日もそんな)
何かを思い出しかけた時、突然車が急停止した。その勢いで体が前に倒れてしまいそうになるが、前の座席にギリギリ両手を付けたおかげで派手に転ぶことはなかった。
「なっ・・・!?どうしたんですか!?」
「あ、あれ・・・!」
運転手が青ざめた顔で指差した先を見て、俺は目を見開いた。
青い空を自由に飛び回る一匹の鳥。それはいつも見ている鳥の大きさよりはるかに大きく、綺麗な緑と黄色の羽を羽ばたかせていた。両手両足には鋭い爪が見えており、大きく見開いた眼がギョロリと動いている。
「なんだあれ・・・うわっ!?」
ゴォッと強風の音が聞こえたのと共に、風圧で車体が大きく揺れた。一瞬見えた大きな影を探すと、見えたのは大きな女性の天使だった。複数の羽が羽ばたくたびに金髪の長い髪やピンクの紐のようなものが優雅になびいている。その天使は鳥を追いかけ、時には行く手を阻むように前に出たりと鳥の向かう先を牽制しているように見えた。
空を飛ぶ天使が太陽と重なる。隙間から見えた光の眩しさで目が眩んで、鼓動が早くなる。脳裏に焼き付いて、古く錆びれていたはず記憶が少しずつ浮かび上がる。断片的に浮かび上がるその記憶は少しずつ重なって、一つの情景を生み出した。
「・・・すみません、ここで降ります」
「ちょ、ちょっとお兄さん!?」
無我夢中だった。気づけばタクシーにお金を置き去りにして外に飛び出していた。飛び回る影に恐れて逃げていく人たちの波に逆らうように二つの影を追いかける。眩しい太陽と熱気のせいで息が苦しくなったけれど、今止まってしまうと追いつけないような気がして必死に足を動かした。
あの時が夢じゃなかったのが。それとも今、夢を見ているのか。
日常と非日常が入り混じって境目が分からなくなる。今感じてる熱気も、息苦しさも、鼓動も、目に映るもの全てが本当のようで嘘のようだった。
(—————でも、それでもあれは)
追いかけてる二つの影が旋回して方向を変える。思わず立ち止まって見上げた先に映った、鳥の化け物の大きな瞳が自分の姿を捉えたのが分かった。そして、鳥は奇声を発して真っすぐこちら側に向かってきた。全身が震え、さっきまで動かせていたはずの足が石のように動かなくなる。
(やばいッ、死—————)
「アグモン!!進化だ!!!」
「おう!太一!!」
一人の青年の声と、子供のような幼い声が聞こえた。
力強い声に呼応するように目の前が光に包まれる。止め処なく溢れる光に耐え切れず目を覆うと、地鳴りのような振動が伝わってその場で転んでしまった。恐る恐る顔を上げた時、脳裏で錆びて見えなかった記憶が一気に鮮明になっていく。
大昔に絶滅したはずの恐竜の姿をしたそれは見上げるほどに大きい。あらゆるものを噛み千切る事がとが出来そうな鋭い牙と爪に青い縞柄の入ったオレンジ色の体は、まるで自らの存在を、強さを誇示しているようだった。
脈打つ鼓動が早くなって呼吸が早くなるを感じる。それは決して恐怖からくるものではなかった。幻だと思っていた、忘れてしまうつもりだったあの日が、再び目の前に広がっていた。
「大丈夫ですか!?」
横から来た青年の声で我に返った。青年の顔を見ようと声をする方を見るが、逆光になって青年の顔が見えない。
「はい・・・大丈夫です」
そう答えると彼は安心したように笑った。実際はよく見えないので、笑ったように見えただけかもしれない。その手前で巨大な鳥を受け止めた恐竜が、互いの手を組み合って行く手を阻んでいた。
「ここじゃ危険だ。早く、安全なところへ!」
「はい・・・!」
混乱しつつもなんとか答えて、立ち上がった。走り出さなきゃいけないのに、目の前に広がる光景を目に焼き付け、確信した。今も昔も、夢じゃない。あれは現実だったんだ、と。
「あのッ・・・!」
精一杯振り絞った声はあまりにも情けなかった。それでも、伝えたかった。あの時助けてくれた少年に、そして今助けてくれた青年に。
「ッ・・・頑張れ!」
あまりにも弱弱しく響いた声は周りの轟音でかき消されていてもおかしくなかった。それでもあの時伝えたかった言葉を、今この状況を、救うことが出来るのはこの青年しかいない。直感で感じて発したその言葉は青年に届いたのか、青年は太陽のような笑顔を向けた。
「おう!任せろ!」
グッとこみ上げた感情をバネにして、俺は走り出した。遠くで起こる戦闘の揺れによろめきながらも必死に走った。遠くで俺の姿を見つけた警官が誘導するように大きく手を振っていた。
「頑張れ・・・頑張れ・・・!」
ギュッと握りしめたカバンから伝わる鼓動は鳴りやまない。あの時見たもの、感じたものが嘘ではなかったことを証明するかのように。
—————あの夏の日は、幻じゃなかったんだ。