新年を迎えたばかりの緩い空気は段々と薄まり、夜の冷え込みが本格的になってきた日。少しでも体温を高めようと身を縮めながら、ヤマトはアパートの階段を昇る。深夜ということもあり、ヤマトの足音が静かに響いていた。
他の住人に迷惑が掛からないように静かに自分達の部屋の中に入ると、静かにため息をつく。部屋の中は外に比べて寒くはないが暖かくもなく、廊下の明かりを付けても人の気配はなかった。
自分の荷物を乱雑に置いて明かりと暖房を付ける。目に映った風景が朝出て行った時と変わらず、もう一人の住人、丈は今日も帰って来れていないことを察した。
それぞれの大学へと進学し、お互いの生活スタイルがズレることは同棲する前から分かっていた。それでも一緒に暮らしたい。そう願ったのはヤマトであり、そのわがままに答えてくれたのは丈だった。そうだと頭では理解していても、寂しいという感情が無くなるわけではない。
寂しいという感情がいつもどこかにぶら下がりながらも、その感情のせいで丈を振り回すわけにはいかない。丈はヤマトと初めて出会った時からずっと医者になるために進み続けた人だ。つい最近まで未来が全く見えなかったヤマトからすれば尊敬する人でもあり、そんな大事な人の夢の邪魔はしたくない。
そんな葛藤を誤魔化すかのように、ヤマトも夜遅くまでバイトや勉強を繰り返していた。そんな日を繰り返していれば、最初は小さかったはずの時間のずれが段々と大きくずれていく。
最後に丈と対面で会話したのはいつだろうか。そんなことを考える度に心臓がギュッと苦しくなる。
(・・・もう寝よう)
今日のバイトは人手が少ないこともあって忙しく、気温の低さも影響してご飯を食べて風呂に入る気力がヤマトには残っていなかった。今日はさっさと寝てしまって、明日朝に風呂に入ってしまえばいい。
自室に入り、服を脱ぎ捨てて部屋着に着替える。落ちた服を拾い上げて浴室の洗濯カゴに放り投げた。崩れ落ちそうな服の山に目を背けた先に、ずっと開かれない丈の部屋の扉を見つけてしまう。
そっと部屋の扉に触れ、ドアノブを握る。本人が居ないのに部屋の扉を開けてしまうのはあまり良くない事は分かっていたが、扉を開けた先で机に向かう丈の姿が見れるような気がした。
それは淡い期待だと分かっていながらも、ヤマトは静かに扉を開けた。
「・・・・」
机の上はパソコンが置かれており、その周りを囲むように参考書が積みあがっている。背の高い本棚には医学に関連する本が詰め込まれ、服やカバンは至る所に乱雑に置かれている。そして、ベッドには身を投げ出したように丈が眠っていた。
その光景にヤマトは夢なのかと疑ったり、嬉しかったり、戸惑ったり、様々な感情が入り混じって言葉が出なかった。起こさないように静かに傍によるが、熟睡しているのか丈が起き上がる気配はない。顔を覗き込むと、ずっと近くで見たくて会いたかった人がそこにいた。
起こさないように、邪魔をしないように、それでも丈に触れたくてヤマトはそっと丈の頭を撫で、頬に触れる。あどけない寝顔は最後に見た日と全く変わらなくて、嬉しかった。
「おかえり」
小さく呟いた声が届くように、ヤマトはそっと丈の唇に自分の唇を重ねる。ちゅっ、と小さく鳴った音でさえも静かな夜によく聞こえ、閉じられた瞳が開いてしまわないか心臓が苦しかった。
早く部屋から出なければならない。なのに名残惜しさが残る。今ここにいても、明日起きればいないのかと思うと、ヤマトは立ち上がることが出来なかった。
頬に触れた手をそのまま下へ降ろして丈の手にそっと触れる。ペンだこが目立つくらい細い指先は少しだけ荒れているように思った。毎日病院で実習に行けば頻繁にアルコール消毒をしているだけでも荒れやすいのに、冬の乾燥のせいで余計に荒れるのだろう。今度ハンドクリームをプレゼントしてあげようかとぼんやり考える。
丈がそこにいる安心感に疲れが相まって急に眠気が強くなってくる。まだここに居たい気持ちはあるが、流石に丈の部屋で眠ることはできない。そっと手から離して立ち上がり、部屋から出ようとした時だった。
「・・・ヤマト?」
丈の声と同じタイミングで手に何かが触れる。ヤマトは心臓が握りつぶされるような緊張が走って、慌てて振り返った。丈が眠そうに薄目を開けながら、ヤマトの手を握っていた。
「わ、悪い。丈」
バクバクと鳴り響く心臓が止まらず、やってしまった後悔がヤマトの頭の中を埋め尽くす。帰ろうと丈の手から離れようとしたヤマトの手は丈の手から離れない。
「・・・あのさ」
体を起こしてヤマトを見上げる丈の瞳が月明りに照らされて淡く光った。驚きと緊張で固まったヤマトの手を丈は優しく握る。
「わがまま、言っていい?」
「わがまま・・・?」
聞き返したヤマトの言葉に丈は少し俯く。何かを躊躇うような表情を浮かべながらも、丈はぼそっと呟いた。
「帰らないで」
「・・・え?」
ちゃんと聞こえた上で思いもしなかった丈のわがままに、ヤマトは目を瞬きさせる。そんな様子を見た丈はヤマトが分かってないと思ったのか、顔を赤くさせながらもさっきよりはっきりとした声で言った。
「一緒に寝てほしい、ってこと」
「でも、お前。疲れてるんじゃ」
「疲れてるよ。・・・ヤマトに会えてなかったし」
気づけば耳まで赤くなっている丈の顔に、ヤマトも顔が熱くなった。頭の中で渦巻いていた色んな感情を落ち着かせるように静かに目を閉じると、静かに笑ってベッドに足を乗せる。丈もヤマトが入れるようにスペースを作ると、ヤマトの手を掴んだまま一緒に横になった。
お互いの顔が目の前にあり、手からお互いの体温を感じる。以前は慣れていた距離感だったはずなのに、心の中がむずむずとする。嬉しくて、照れくさくて、いじらしい。
「・・・ずっと話したかった」
「僕も」
「俺、勝手に迷惑なんじゃないのかなって思ってた。ずっと頑張ってたこと知ってたからさ・・・邪魔にだけはなりたくなかったんだ」
丈は嬉しそうに微笑みながらヤマトの頬に触れた。逸らしていた目が合うと、丈の手はヤマトの後ろに伸ばし、ヤマトの体をグッと抱き寄せる。黒い瞳が嬉しそうに目を細め、丈の息遣いが唇に触れ、間もなく唇も触れ合った。
「ありがとう・・・でも、僕も寂しかった」
「ごめっ・・・」
ヤマトの謝罪をかき消すように丈はキスをする。何度も唇を合わせ、ちゅ、ちゅ、と鳴る音はさっきよりも大きく感じた。
「でも、今、会えたから。謝らないで?」
「・・・そうならそうだって言葉で言え」
顔を真っ赤にしたヤマトをからかうように丈は小さく笑うと、頬をそっと撫でた。その目は段々眠気を帯びてきたのか、瞬きの回数が増えている。
「明日もバイト?」
「・・・だな」
「そっか。僕も明日は課題しなきゃ」
「明日、家にいるのか?」
「うん」
「じゃあ、明日は一緒にご飯を食べよう」
「・・・本当?」
「あぁ、明日は早く帰れるから」
「ふふふ、やった」
嬉しそうに笑いながら目を閉じる丈を見て、ヤマトも目を閉じた。二人とも、きっと明日は早いだろう。
「おやすみ。ヤマト」
「あぁ、おやすみ。丈」
けれど、明日は目が覚めればお互いがそこにいる。お互いの用事が落ち着けば、また会うことが出来る。ただ当たり前だったはずの事が嬉しくて、明日が待ち遠しかった。
明日は何を作ってやろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、ヤマトは眠りに落ちた。