家を飛び出してしばらく経った。
初めての大学生活に一人暮らし、それに伴ってバイトをしながら映画制作と忙しい毎日を送っていた。毎日肩が壊れそうなほど重いものを持って色んな場所へ走り回る日々に、最初はついていけるか不安だったものの、陸上部にいたおかげでついた体力と足の速さである程度慣れてきた気がした。
そんな慌ただしい日々の中でも、今日は特に予定のなく暇な日だった。大学が終わり、友人と久しぶりに遊びに行こうかと思っていたところに一本の電話が届く。
公衆電話、と書かれた文字がディスプレイに並ぶ。出ようか迷っていたが、友人を待たせているが、誰かからの緊急の連絡かもしれないので出ることにした。
「はい、もしもし」
『もしもし?城戸シンだけど。城戸シュウくんで合ってますか?』
電話の奥から聞こえた声は、家を出てから一つも声を聴かなかったシン兄さんだった。公衆電話ということもあって、やや音質が荒いものの聞き間違えるはずがない。
「シン兄さん!?な、なんで兄さんが電話してるの」
『電話ぐらいするけど。んなことよりさ、お前今どこ?俺、今京都駅にいるんだけどさ』
「京都駅!?」
思わず出た声が予想以上に大きく、周りにいた友達がシュウを見る。「ごめん」と謝って人が少ない場所へと移動する。
「なんで兄さん京都駅にいるの!?というか、なんで京都に!?」
『色々あってな。んで、色々あって携帯の電池切れたから迎えに来てほしいんだけどさ』
「え゛っ」
『ん?まずかったか?あっ、やばいもう切れる』
「えっ!?ちょっと、兄さん!?」
『あー、切れる。とりあえず待ってるから』
「ちょっと。兄さん!」
ツーツー。
無機質な通知音が無情にも響き渡り、その場に崩れ落ちそうになる。公衆電話ということもありこちらから連絡をすることが出来ない。きっと兄さんはそれを知ってて、充電した携帯で連絡をしなかった。そうでもして、自分に会わせようとしている。
「もう・・・・」
今更考えたって仕方ない。兄さんは昔からこういうところでずるがしこい奴なのだ。
「ごめん。急用ができた」
「えぇ!?今日久しぶりに暇だったのに~!?」
「ほんとにごめん!次で埋め合わせするから」
文句を言いながらも許してくれる友人達に感謝しながら、校門を出て駅へ向かう。脳内で一発、兄さんの肩を殴ったが現実(リアル)でも殴ってやらないと気が済まない。きっとそんなことも、本人を前にしたら吹っ飛んでしまうのだろうけれど。
兄さんと兄弟じゃなくなったのは数年前の夏の日の事。2人でベランダに出てこれからの事だとかを話していた時に、脈絡もなく
「俺、やっぱシュウのこと好きだわ。恋人になってよ」
と、あまりにもあっさりとした告白に思わず聞き逃しそうになったことは今でも覚えている。
恋人、と言っても何をしたらいいかなんてわからなかった。ましてや今まで兄だった存在が恋人となるのだ。どう呼べばいいのか、どう触れればいいのか、分からなかった。
そんな俺とは違って兄さんはあの日以降もずっと変わらなかった。呼び方も接し方も距離感も昔のままで、何のために恋人になったのかよくわからなかった。
そんな油断を突かれた夜の事も、はっきりと覚えている。いつも頼もしいはずの兄が自分の腕の中で抱かれ、女のようによがる姿はあまりにも非日常で頭がおかしくなりそうだった。
それでも、兄さんが自分に体を預けてくれたことは嬉しかったし、そこで初めて「恋人」というものを感じた。
同時にこの関係性が特別でありながら異常であることも、痛いほど感じた。
「兄さん!」
ロータリー付近で待っている見覚えのあるシルエットに呼びかける。一つ頭低いシルエットがこちらを向いて呑気に笑う。
「いや~助かった助かった」
「助かったじゃないって!なんで兄さん京都にいるんだよ・・・」
「お前に会いに」
見上げた瞳と目が合う。電気が走った衝動に駆られるが「なんつって」と返され、思わずため息をつく。
「学校というか仕事いうか、ちょっと京都に用事があって、お前はついでだよ」
「・・・帰る」
「あー!悪かったって!!お前に帰られると俺の寝る場所がないんだって!」
「えっ。兄さん宿も取らずに来たの?」
「おう。お前のところに行くつもりだったし」
えっへん。と威張る兄さんの後ろ頭を優しく叩く。「いてっ」と呟く姿は怒られてる少年のようで、本当に6年も年の差があるのか疑ってしまう。
「もし俺が今日家に帰れなかったらどうするつもりだったの?」
「漫画喫茶?」
「もー・・・・」
危なかった。もし公衆電話だと知って切っていたら、今頃兄さんは京都の漫画喫茶で1人で過ごすことになると思うと恐ろしいし、兄さんならやりかねない。本当に危なかった。
「とりあえず、帰るよ」
「おう」
そう言って兄さんはスッと手を差し出す。お土産なんか持ってきてないし、渡す物も特にないはずなのだが。
「何それ」
「手。繋いで」
「は」
ん。と差し出す手に一歩下がる。何を急に言い出すかと思えば、兄弟モードは終わったから恋人になりましょ。とでも言いたいのだろうか。第一、こんな人が多い駅前で手なんかつなげるはずがない。
そんな抗議も虚しく「無理」と断ろうとした自分の手を、兄さんは強引に奪い取る。
「ちょっ」
「なんだよ。恋人なんだからこれぐらいいいだろ」
ムスッと分かりやすく不貞腐れる兄さんにもはや何も言葉が出てこない。少し暗くなった駅ではきっと、手を繋いでるところなんて分からないだろう。そう祈りながらも、手を振りほどくことなくそのまま歩き出す。少し強めに握られた手は「握り返せ」という無言の圧。そっと握り返すと後ろから小さく笑い声が聞こえた気がした。
駅を乗り継いで自宅の最寄り駅に着くまで、兄さんは手を離さなかった。段々慣れてきて近況報告をお互いにして歩いていく途中で、晩御飯を食べていないことに気づく。元々友人と食べに行く予定だったのでもちろん用意はしていない。仕方なく、一度荷物を置きに自宅へ戻ってから歩いて行ける距離にあるラーメン屋へ向かった。
「京都に来てラーメンかあ」
「ここのラーメンめちゃくちゃ美味いんだぞ」
「シュウがそういうなら美味しいんだろうけど」
そう言いながら少し並んだ列の間でも手は離れなかった。離れるタイミングがない、というよりはお互い離す理由がないというのが近い気がする。久しぶりに触れた体温は懐かしくも温かかった。
少し小さくて、荒れた手。この手で色んなことを勉強して経験して、医者になろうとしている。途中で医者の道を逸れた自分にとっては兄さんや丈は尊敬するし、自慢の兄弟だと思う。
『道は違っても、お前も十分偉いよ』
昔、そう言われて頭を撫でられたことがある。その時の眼差しは穏やかで柔らかくて、兄と恋人の曖昧な境界線にいる淡くて脆い存在だと思った。自分よりも小さくて細くて、優しくて日向のような兄さんを、壊れないように守ってあげないといけないと思った。
ラーメンを食べ終えるとコンビニで小腹が空いた時用におかしを買って家に入る。人がしばらく来ていなくて散らかっていたが、兄さんは特に気にする様子もなくベットに座り込む。
「あー、疲れた」
ギシッと音を立ててベッド倒れこむ兄さんを横目に、部屋の片づけや風呂の準備を済ませていく。
「シュウ」
名前を呼ばれ、振り返ると寝転んだ兄さんと目が合った。上着も脱がないまま寝転がっては、両手を広げた。「来い」ということだろう。手に持った服を置きなおし、隣に座る。この時点で心臓の音がうるさく鳴り響いていた。
「転んでよ」
「転んだら片付けできない。あと服脱ぎなよ」
「うわっ。積極的」
「そういう意味じゃない!」
分かりやすく照れてしまってあげた声に、兄さんは満足したように笑うと上着を脱いで椅子に掛ける。もう一度隣に座りなおすが、先ほどよりも距離を詰めてきた。触れる肩がくすぐったくてたまらない。
「緊張してんの?」
「そりゃ、するよ。何日ぶりだと思ってるの」
「確かにな」
家を飛び出してから何日どころか何か月も会っていない。久しぶりの感覚に何をすればいいのか分からない。泳ぐ目を覗き込むように映る兄さんはとても綺麗で、でも少しだけ目の下のクマが濃くなっている気がした。
「別になにもしないよ」
「知ってる」
「まぁ、お前がしてくれるならいいけど」
「な、」
「また昔みたいに、やってくれないの?」
耳元で囁かれた言葉は何よりも甘く、香水のようにまとわりつく。そっと離れた兄さんの笑った顔は期待が混じっていた。こちらの余裕のなさを見破って誘ってくる。ずるい人だ。
「にい、さん」
頭が痛くなるほど鳴り響く心臓がうるさくて仕方なくて、冷静に考えれない脳内のまま、理性と本能が戦い続ける。兄さんは、こんなことのためにやってきたんじゃない。そもそも家族である兄さんとこんな行為をすることも、こんな関係であることもおかしいのだ。でも、今の兄さんは。
「俺はいいよ」
恋人だ。
脳内で出たアンサーと共に出てしまった兄さんの許し。
唇を強く噛んで兄さんを見ると、兄さんはそのまま倒れこむ。ギシッと鳴るベットの音が雰囲気を作り出すのには十分すぎる演出だった。覆いかぶさるようについた手の震えに気づいた兄さんは、そっと触って顔を寄せた。
「静かに鳴けなかったら、ごめんな」
「そんな恥ずかしい事言わないで」
ごめん。そう開いた兄さんの口に噛み付くように、唇を重ね合わせた。