優しい人

 

優しくて真面目で大好きな人が泣いている音がした。

 深い眠りから覚めると、少し薄暗くなったいつもの丈の部屋を窓から差し込む赤い光が部屋を赤く染めていた。
今日は丈が仕事が休みで久しぶりに2人でゆっくり過ごした日。朝から一緒に外に出かけて、いろんなものを買って食べて、帰ってきてソファでゆっくり過ごしてるうちに寝てしまったようだった。
温かい丈の膝の上。いつも優しく撫でてくれる手は、何故か今だけは震えていた。背中に置いた手がそっとゴマモンの手を握る。頭の上では鼻をすする音だけが聞こえてくる。
ふわふわした視界と思考の中、ぼんやりと聞こえてくるテレビの音へ耳を傾ける。段々鮮明になっていく情報を汲み取ると、動物のドキュメンタリー番組が流れていた。
そこには涙を流す一人の女性の姿が映っていた。
「ありがとう」「大好きだよ」と震える声で繰り返し呟いては、犬の写真を握りしめている。左端のテロップを見ると「愛犬との別れを乗り越えて」の文字がぼんやりと見えた。

丈は昔から涙もろい人だった。感動系の映画ではほぼ確実に泣く丈の顔をどんな理由であっても見たくなくて必死に励ましたことがある。
泣くと分かっていながらも見てしまう丈が不思議だったが、いつもめいいっぱい抱きしめてやると泣きながら「ありがとう」と笑ってくれるのが嬉しかった。
今日もまた泣いているのかな。励ましてあげなきゃ。大丈夫だって、言ってあげなきゃ。


 ゆっくり起き上がるつもりだった体が簡単に持ち上がっていく。ゴマモンから抱きしめるつもりだったのに、丈から強く抱きしめられた。
鼻をくすぐる、優しくて温かい匂い。昔に比べたら大きて硬くなってしまったはずの両手はとても柔らかくて、丈に包まれているこの瞬間がゴマモンは大好きだった。
でも今は少しだけ違う。耳元ではすすり泣く弱々しい声に少しだけ震えている肩。優しく抱きしめる力がいつもよりきつくて、苦しかった。
「丈?」
ゴマモンの声に驚いたのか、勢いよく引き剥がされる。両脇で高く持ち上がられた時に見えた丈の目は大きく見開いていて、涙が滲んでいた。
「ゴマモン!?お、起きてたの?」
ゴマモンを持ち上げたまま腕で乱暴に顔を拭くたびに体がゆらゆら揺れた。目尻や鼻が赤くなっても、優しく笑いかける。
今まで見た笑顔よりもダントツで下手くそな笑顔だった。
「ごめんね。もうこんな時間なのに何も準備してないや。今からご飯作るから、ちょっと待って」
「丈」
ソファの上に置かれる直前で名前を呼ぶとピクリ、と動きが止まった。何かを聞かれることを必死で隠そうと目が泳いでるのも丸わかりだ。
何年君と一緒にいると思ってるんだ。


「ねぇ、丈。もう一回抱きしめてよ」
「えっ」
「いいから。ほら!はやく!」
バタバタと全身で暴れると「わかったわかった」ともう一度抱きしめられる。あぁ、やっぱり優しくて大好きな匂いと温度だ。さっきとは違って抱きしめる腕も指も柔らかい。たてがみを撫でるように伝う指がくすぐったかった。


「あのねぇ、丈」
「ん?」
「オイラはずーっと、丈と一緒だよ?」


 両手を首に回してギュッと丈を抱きしめる。
息をのむ音が聞こえ、今までで一番力強く優しい力で抱きしめられる。
それに答えるように、ゴマモンは頬に触れる丈の首に顔を擦りつけた。
「苦しいよぉ」
「ごめんね。ありがとう。ゴマモン」
「丈はこうでもしないと泣き止まないでしょ?」
「そうかもね・・・。泣き虫なのかも」
「泣き虫でもオイラがいるから大丈夫だね」
「ふふ、そうだね」
良かった。いつもの優しい笑い声が聞こえた。顔は見えないけど、きっといつものように眉を下げて困ったように笑っているのだろう。あぁ、良かった。


「おなかすいたね」
しばらくして、ゴマモンを抱き上げたまま丈が立ち上がる。料理をこれからするのだろうか。ゴマモンは体を器用に動かして丈の背中に回るが、持ち上げられて肩車のように首の上に乗せられる。
「何作るんだ?」
「うーん・・・・何にしようか」
「オイラ、この前食べたやつがいい!」
「なんだろ。オムライス?」
「そう!それ!」
手をバタバタすると「あぶないよ」と優しく怒られた。初めて作った時のオムライスはとてもオムライスと呼べるものではなかったが、何度も作っていくうちに段々上手になっていったのを知っている。
「ゴマモンはオムライスが好きだねぇ」と言いながら卵を溶く丈はきっと覚えていないのだろう。初めてゴマモンに作った手料理がオムライスだったことを。
「大好きだよ」
丈が作るオムライスも。丈と過ごすこの毎日も。真面目で頑固で優しい丈の事も。
そんなことを言うのは少し照れくさくて言えてない。
でもいつか、言えるといいな。