その音は、静かな部屋に突然鳴り響いた。
何か陶器のようなものが割れる音にシンは顔を上げた。走らせていたシャーペンを置き周りを見渡すと、後ろで本を読んでたはずの丈がどこにもいなかった。
もしかして。嫌な予感を感じながらもカチャカチャと音がする方へ向かう。そっと覗くと台所の前で丈が座り込んでいた。
「・・・丈?」
シンの声に反応して小さな丈の肩が大きく揺れ、カシャンと音が鳴る。ゆっくりとこちらを向いた丈の顔は真っ青だった。眼鏡越しに見える大きな瞳には今にも零れそうな大粒の涙を浮かべ、少しだけ開いている口が微かに震えている。足元には割れたマグカップの破片が散らばり、その一部を握った手はところどころに赤くなっていた。
丈の姿を見たシンは全てを察し、丈に近づいてしゃがみ込む。一度も目を合わせることなく、俯く丈の手をそっと触り、掴んでいる破片を手から離す。
「触るんじゃないぞ」
シンは救急セットを取ってきて丈の手の傷に手当てをする。小さな傷口に塗る消毒液は染みて痛いだろうに、丈は一言も発することはなかった。手当てを終えて袋に破片を集めて、掃除機で小さな破片を吸った。その間、丈は何も言うことなく立ったままだった。
割ったのは母さんのマグカップだった。壊してしまった罪悪感から必死に直そうとしていたのだろう。でも、なんで母さんのマグカップを出したのだろうか。
そう思いながらふと台所を見ると、もう一つマグカップが置かれていた。
それは丈のものでもなく、シンのマグカップだった。
(僕の・・・?)
もしかすると丈はシンのマグカップを出そうとして、手前にあった母さんのマグカップを取り出したのだろう。そこまでは良かった。だが、しまう時にうっかり手を滑らせて落としてしまったのだろう。
それも仕方ない。まだ背が低い丈には椅子を使ってもやっと届くような高さにマグカップがある。母さんがシュウが小さい頃から・・・もしかするとシンが小さい頃から、怪我を防止するために高い位置へ置いていた。
それが今回は裏目に出てしまったのだろう。これは無理に取りに行ってしまった丈も悪いかもしれないが、ちゃんと見てやれなかったシンにも責任があるだろう。
「丈、こっちおいで」
優しく手招きすると、ゆっくりと近づいてくる。あっちを見たりこっちを見たりと目線は一向に合わないが、そのまま抱き上げた。「わっ」と小さく声を上げ、目を丸くしてシンを見る。そんな丈にシンは優しく笑いかけ、零れかけた涙を服の袖で拭ってやる。割れたマグカップが入った袋を持って2人は裏庭へ向かった。
用具入れからスコップを取り出して家の隅にしゃがみ込んで丈をおろす。どうしたらいいのかわからず困った顔を浮かべる丈をよそに、シンはスコップで穴を掘ってその中に割れたマグカップの破片を入れて埋める。
「えっ」
「しーっ」
目を見開いてこちらを見る丈にシンは人差し指を立てて口に当てる。6歳の丈でもこれがどんな意味を成しているかわかっていた。
「でも、これ、」
「俺にジュース持っていこうとしたんだろ?」
図星だったのか、戸惑いを見せながらもゆっくりと頷いた。そんな丈の頭をシンは優しくなでる。
「俺が勉強ばっかりしてて、お前をほったらかしにしてた俺にも落ち度があるし」
「そんな、違うよ、兄さんは」
「いーの。でも、俺も怒られたくないから・・・俺と丈だけの、秘密」
シンはニッと笑って小指を丈の前に出した。丈は少しの罪悪感を感じながらも小さな小指を当てる。小さな小指をギュッと握ってやると、少し安心したのか、それとも2人だけの秘密が嬉しかったのか、表情が緩んだように見えた。
「でも、どうやって隠すの?」
「兄ちゃんに任せとけって。いい案があるんだ」
「・・そうなの?」
「あぁ、でもお前には内緒。うっかりしゃべっちゃうそうだからな」
「そ、そんなことないよ」
むすっとした顔を浮かべる丈の頭を、今度はくしゃくしゃに撫でる。「やめてよ」と言って笑う丈の目には涙は消え、いつもの丈に戻ったように見えて、シンも安心したように笑った。
「兄さんも怒られるなら、僕言わない」
「いい子だな。でも、もうあんなことするなよ?」
「うん」
あれから数日経っても、マグカップがなくなったことに関して母さんは何も言わなかった。
そしてさらに時間がたつと、丈の頭の中からも忘れ去られた。
「・・・・そういえばさぁ」
「・・・なんだ?」
正月休みに実家に総出で帰って一通りの挨拶を終えたシンと丈はこたつで久しぶりの暇を過ごしていた。
ここ最近勉強や仕事で立て込んでいた2人にとっては久しぶりの暇だった。こたつの中でただテレビを眺めるだけの、のんびりとした時間。誰かに急に呼ばれることもなければ、追われることもなかった。
「あの日、覚えてる?」
「・・・・何の日?」
「ほら、僕が小さい時に母さんのマグカップ割った日」
「・・・・・・・・・あぁー」
こたつの反対側にいるシンの顔は見えず、声だけしか聞こえなかったが、きっと眉を寄せて思い出しているのだろうか。
それも仕方ない。もう10年以上も前の話だ。
「あのマグカップ、結局どうしたの?」
「んー・・・・・どうしたっけなぁ・・・・」
正月ボケになっているのか、テレビに夢中なのか、いつもよりゆったりとした口調で返される。
「そんな昔の話、よく覚えてるな」
「まぁ、覚えているというよりは思い出した感じかなぁ・・・そういえばどうしたんだろうなって」
あの日からしばらく、母さんに聞かれるんじゃないかとビクビクしていたが、何も言われない日が続き、そうしていくうちに自分が忘れてしまっていた。
母さんが忘れてしまったのだろうか?そう思ったが、あの日割ったマグカップは母さんが普段使っているマグカップだった。忘れるはずがないのだ。
「それなら俺、知ってるぞ」
そう言って奥からシュウが器用にマグカップを三つ持ってやってきた。
「知ってるの?」
「あぁ、だってあれは――――」
「シュウ?」
シュウの言葉を遮るようにシンが名前を呼ぶ。忘れたと思っていたが実は知ってるんじゃないだろうか、なんで隠す必要があるのか不思議だったし、ここまで来たら気になってくる。
「別にいいだろ?何年前の話だよ」
「10年以上前。だからもういいだろ?」
「僕、気になるんだけど」
「ほらぁ」
「ほらじゃない」
シュウがダメだ、と言わんばかりに両手を上げる。兄さんはこういうところが意外と頑固だったりする。気になりもするが、人が嫌がることをしてまで知ろうとは―――
「母さんに代わりのマグカップ買って、俺が割ったって言っただけなのにな」
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
シュウの突然の告白に黙り込む2人。
恐る恐るシンの方を見ると起き上がってシュウを睨んでいた。その反面、シュウ兄さんはうっかり言ってしまった、と言わんばかりの顔をしているがおそらくわざとだろう。
「に、兄さん・・・ほんとなの?」
「・・・まぁ、ね」
「シュウ兄さん・・・・」
シンに睨まれたことを特に気にする様子もなくコーヒーを飲む。こういうところに度胸があるのは、昔からだった。
今更昔の話を掘り返されるのが嫌だったのだろうか。シンはテレビの方に目線を向けたままだった。
「シン兄さん」
「・・・・何?」
「ありがとう」
丈からのお礼に驚き目を丸くして丈を見る。照れ臭そうにポリポリと後ろ頭を掻きながら丈は笑った。
「いい話だなぁ・・・・あでっ」
ぼそりと呟いたシュウの足をシンが蹴ったのだろうか。少しだけこたつが揺れる。
自然と笑みがこぼれ、「ふふ」と笑う丈につられ、シンとシュウも笑った。
「今日のご飯なんだろうね」
「焼き肉がいいな」
「シュウに奢ってもらうか」
「奢るならシン兄さんだろ・・・」