満月

太陽の傾きが早く感じるようになり、少し肌寒くなって来る夜に夏の終わりを感じる。時刻は二十時過ぎ。塾を終えた丈は一人で夜道を歩いていた。
 帰り道の隙間時間も怠らないように英語のリスニングをしていたが、塾で勉強した後で脳を使いすぎたせいか単語が右から左へ流れていく。このままじゃ勉強にならない、と丈は自分の容量の悪さにため息をつきながらイヤホンを外した。
 さっきまで耳元で常に声が聞こえていた空間から解放され、一気に静けさを感じる。人口が一番多い東京でさえも、夜はこんなにも静かなものなのだと思った。雑音が混ざる脳を落ち着かせるためにゆっくりと息を吸って、吐き出した。ふと地面を見た時に見えた影の長さに気づいて、夜空を見上げた。
(――あ)


 今日は綺麗な満月の日だった。街の明かりが強すぎて普段は見えない星空も今日は少し目を逸らせば小さく輝いているのが分かる。丈が気づかなかっただけで、今日の夜空はこんなにも綺麗だったのか。
 満月の日はいつもあの顔を思い浮かべる。それは随分と昔に再会した友人の顔だった。つい最近まで小学生の子供だった友人は中学生になった途端、急に大人びて見えて、少しだけ綺麗だと思った。元々綺麗な顔立ちをしているのを知っていたはずなのに、妙に緊張した夜の事を覚えている。心臓の音がどこか落ち着かなくて、変な感じで、なのにまた出会えたことが嬉しくて、辿り着いてしまう事を惜しく感じた。

 この綺麗な月を彼は見ているだろうか。

 そんなどうでも良い事が気になってあの顔が浮かぶ。気づけば手が自然と携帯を取り出していた。
 普段は連絡を取り合わないが、連絡先だけは知っていた。少しだけ震える指で連絡先の「石田ヤマト」を選ぶ。あとはボタン一つ押してしまえば繋がってしまう。
(こんなことで連絡しても仕方ないのに、どうして)
 緊急の用事だと勘違いさせてしまったらどうしよう。バンドの練習だってあるんだ。そんなところに急に電話したら迷惑を掛けるんじゃないか。そんな気持ちが心をギュッと締め付けて、ボタンを押す指が引っ込んでしまう。

 ふと、くだらない事を話しながら帰った放課後を思い出した。別れる頃には内容もろくに覚えていないような中身の無い話ばかり話していたが、そんな話でも楽しいと思った。それでも何度でも話したいと思った。あの頃の自分と今の自分は何が違うのだろう。知らない間に、何かが変わってしまったのだろうか。
 そう思うとなんだか悔しくて、丈は思い切ってボタンを押した。携帯を耳に当てるとプルルルル……と呼び出し音が聞こえると、心臓の脈打つ速さがどんどん速くなっていくのを感じた。模試の結果を見るときでさえ、こんなに緊張することは無いのに。


『――もしもし。丈?どうかしたか?』
 携帯越しに聞こえたヤマトの声に丈の心臓は大きく脈打った。バクバクと鳴り響く音は電話越しに聞こえてしまいそうだった。やっぱりこんな事で電話を掛けたのは間違いだっただろうか。
「いや……どうもしないんだ。ただ、ちょっと、すごくくだらないんだけどさ……」
 しどろもどろな自分の言葉が恥ずかしかった。だけど、電話の向こうのヤマトは丈を茶化すことなく、「おう」と静かに返事をした。
 ふと、助けを求めるように空を見上げた。そして丈は目を見開いた。
 その瞬間に見えた満月は、さっき一人で見た満月よりも大きく、輝いて見えた。その煌めきは息を吞むほどに美しく、丈の鼓動を少しずつ落ち着かせていく。
「月が綺麗だって、伝えたくて」
 飲まれそうなほどに綺麗な月が、丈の中にある一つの感情に名前を付けた。


 あぁ。僕はきっと、君の事が。