甘すぎたラブソング

城戸丈は頭を抱えていた。
インターネットというものが生まれて一般家庭にも普及してから、あらゆる情報が誰でも手に入りやすくなった。書店や図書館に向かって分厚い文献や辞書を見つけ、ベラベラとページを捲って言葉を探していた手間が、検索エンジンに言葉を打ち込むだけで一瞬にしてあらゆる情報が手に入る。例えその情報が自分の求めている正しい情報ではなくても、その情報をヒントに辞書や文献を探すことが出来る。つまり、インターネットという膨大な情報量と本という昔から残されている情報を組み合わせれば、子供が分からないと思う大抵の事は解決できるという事だ。

それでも、机の上に広げられた英語に関連する数々の辞書とネットワークを駆使しても解けない問題がこの世には存在していた。それはたった一枚の、CDケースに挟まっている歌詞カードに記されている英文の数々。中学生である丈が翻訳するにはやや難しい単語が並んでいたものの、家にある辞書やパソコンを使えば簡単に翻訳することが出来た。
出来てしまった。そこが問題なのだ。
「……」
翻訳された言葉を静かに睨みつけ、はぁ、と大きなため息をついた。簡単に情報が手に入る時代とはいえ、簡単に理解してはいけないものもこの世には存在する。こんなことを言ったら知識の紋章を持つ彼はなんというだろうか。なんて気を反らしたとて目の前の問題は解決しない。
城戸丈は再び頭を抱えた。
彼がこんなにも頭を抱えることになったきっかけは、一週間前の事だった。

 

***

 

「洋楽?」
「あぁ。最近聞き始めたんだ」
学校が終わった帰り道、丈はお台場でヤマトと出会った。丈が小学生だった時は同じ学校に通っていたこともあり、ヤマトを含め皆とは何度か顔を合わせていたが、丈が卒業して中学生に進学した途端にパタリと出会わなくなってしまった。丈も受験があったから元々忙しかったとはいえ、今まで話す事はなくとも見かけていた顔が見えなくなるのは少し寂しく感じる。だからといって皆を何かに誘うきっかけを生み出せるわけでもなく、静かに中学生活を過ごしていた時にCDショップから出てくる見覚えのある後ろ姿を見かけて、思わず声をかけたのだ。

ヤマトは丈の問いかけに目を輝かせながら洋楽の良さを語った。どうやらヤマトは最近、父親にボーナスでCDプレイヤーと人気のCDを何枚か買ってもらったらしい。最初の頃は買ってもらったCDを聞いていたのだが、テレビにも流れている曲をCDで繰り返し聞くのは段々飽きてきたらしく、お父さんの部屋を漁っていると外国人バンドの写真が印刷されたCDを見つけた。再生してみたところ、その曲はヤマトの好みと見事に合致し、そのまま洋楽にハマったという。今では貯めていたお小遣いでうまくやりくりしながらCDショップを巡っては、欲しいCDを収集しているらしい。嬉々として語るヤマトの熱量に少し驚いたものの、元々音楽に興味があったり、きっかけが父親が持っていたCDだったところを考えるとヤマトが洋楽にハマるのは自然な事だったのかもしれない。
「ただ、ちょっと困ったことがあってさ」
「困ったこと……?」
大したことじゃないんだけど、と言いながらヤマトは頭を掻いた。
「洋楽だから当たり前なんだけど、歌が英語だから歌詞の意味が分からなくてさ。CDに付いてくる歌詞も英語だから分からねぇし、だからって俺が翻訳なんて出来るわけないし、調べても訳わかんねぇし……」
そう呟きながらヤマトは眉間に眉を寄せた。洋楽を何度も聞いていれば歌詞の意味を知りたいと思うのは自然なことだ。もしヤマトがもう少し大きければ自分で調べることが出来ただろうが、小学生だと自分で調べるのは難しいだろう。(ただ一人を除いて)

「僕で良ければ翻訳しようか?」
「えっ!?」
丈の提案にヤマトは目を見開いた。
「まだ見てないし聞いたこともないからどんなものか分からないけど、多分そんなに難しい言葉は無いんじゃないのかな。翻訳作業も僕にとっては勉強の一つになるし、ヤマトは歌詞が分かるし、お互いにちょうどいいかなって思ったんだけど……」
「い、いいのか?」
先ほどまで洋楽を語っていた顔とは比べ物にならないぐらいに目を輝かせ、ヤマトは丈を見上げた。そこまで喜ばれるとは思っていなかったが、ヤマトの知りたい気持ちに自分が応えれるなら応えてやりたい。
「うん。時間はかかってしまうかもしれないけれど、それでもヤマトが良ければ」
「そんなの全然構わねぇよ。……あ、あのさ!丈ってこの後暇?今CD持ってなくてさ、俺ん家に来てほしいんだけど」
「構わないけど、別に今すぐじゃなくても……」
沢山あるCDの中から翻訳してほしい曲を決めるのは大変だろうからゆっくり決めて欲しいと思ったのだが、ヤマトはもう歌詞を翻訳してもらえる嬉しさで丈の話を半分聞いてないようだった。どの曲にしようか。あの曲も良いんだよな。このバンドも結構良い曲なんだよ。と言葉を並べながら興奮気味に話すヤマトの姿を見ていると、丈は自分の知識が初めて勉強以外の事で役に立ったような気がして嬉しくなった丈はそれ以上何も言うことなく、ヤマトに着いていった。

 

***

 

翻訳してほしい曲のCDをヤマトの家で探すはずが、いつの間にかヤマトによる洋楽布教会が開かれ、ヤマトの熱意に負けた丈は翻訳してほしい曲以外にも丈に聞いてほしい、と推されたバンドのCDを何枚か借りて帰ることになった。
いつもはクールで冷静なヤマトがあんなにも目を輝かせて語っている姿を見るのは、ある意味新鮮で面白かった。あの様子だとヤマト自身が音楽を始めるのはそう時間がかからないだろう。ハーモニカを吹くのだって上手いヤマトだったらどんな楽器だって弾きこなせてしまうような気がする。だとすればやっぱりギターかベースだろうか?ドラムも難しそうだが、ヤマトは器用だから様になりそうな気はする。だけど、ヤマトに見せてもらったバンドのジャケットにはピアノを弾いている姿も見えたから、意外とピアノだったりするのだろうか。
そんなことを考えながら家に帰り、ご飯や身支度を終えると丈はさっそく借りてきたCDから歌詞カードを取り出す。ヤマトの家で聞いた時も思っていたが、やはりそこまで難しい単語が並べられている様子は無かった。ただ、それはあくまで直訳した時の場合だ。英語の本を直訳で読むと意味がおかしくなることはよくあることで、音楽となればスラングの要素も含まれるだろう。丈はまずルーズリーフの入った袋から一枚紙を取り出すと、自分が持っている英和辞典で翻訳を試みた。そこから分からないところはネットの力を借りて翻訳を進めればいい。

……そう思っていた。だからこそ、最初に出た言葉の意味は直訳して、おかしな文章になっているのだろうと思っていた。実際にスラングであろう言葉遣いも見つけたのでネットで検索をかけてみた。ただ、それも序章に過ぎず、そこから歌詞の様子が段々とおかしくなっていった。
様子がおかしい、というのは、決してロックバンドによくある暴言塗れの曲という訳ではない。むしろ、丈はそっちの方を覚悟していたのだが、翻訳すればするほどに出てくる言葉はどれも――大人向けの言葉ばかりだった。
誤訳であって欲しい、という半ば願いのような気持ちで今はいない兄の部屋にある参考になりそうな本を勝手に借りてページを捲ってみても、血眼になってインターネットの海を泳いでみても、結局並べられる言葉はどれも小学校のヤマトに見せられるようなものではなかった。まるで表紙を見て購入した本が実はエロ本でした、みたいな展開に丈はただただ頭を抱える事しかできない。それと同時にヤマトがこの曲を光子郎に頼まなくて良かった、と心底安心もしている。もし仮に光子郎がこの歌詞を翻訳して、意味までしっかり調べてしまったら。誰も幸せにならない事故が発生してしまうところだった。
ただ、それは丈も例外ではない。当たり前だが、この言葉の意味をそのままヤマトに伝えることは決して出来ない。だからと言って「翻訳できなかった」と言ってしまえば、この曲は次に光子郎の元へ行くだろう。窮地に立たされている丈に出来ることは、この歌詞を違和感なく、かつヤマトが見ても大丈夫なように言葉を言い換える事しかなかった。

 

***

 

そうして、現在に至る。
“本来の歌詞”は半分ほど翻訳ができている。ただ、ここからヤマトが見ても問題ない言葉に言い換える作業のせいで、最終的に完成している歌詞はまだ序盤の方だった。丈も決して語彙が堪能ではないが、だからと言って誰かに相談できるような事でも無い。ここ数日ほど、自分が今後言葉にすることが無いであろう愛の言葉を書き連ねているが、これをヤマトに見せるのかと思うとそれはそれで恥ずかしさが募ってきてしまう。最初の頃は勉強の息抜きになればいいと思っていたが、今ではむしろ勉強の方が息抜きのようになっていた。
とはいえ、あんなにも心待ちにしているヤマトの事を思うとあまり時間もかけられない。どんな形であれ、ヤマトはあの時丈を頼ってくれたのだ。それに精いっぱい応えてやるのが友達だろう。丈はゆっくりと背伸びをすると、机に転がっていたシャーペンを手に取った。

 

結局、翻訳作業には一ヶ月も時間が掛かった。
最初の頃は色んな意味で苦戦していたものの、英単語やスラングの意味を知るだけではなく国語としての知識も得たり、鍛えることができたので、結果的には一番勉強になったかもしれない。完成してすぐにヤマトに連絡をしたところ、電話越しでも嬉しそうな声が聞こえてきた。近いうちに取りに行きたい、と言うので直近で空いていた日を言うと「絶対に空けておくよ。本当にありがとう」と返ってきた。何度か諦めそうになったこともあったが、ヤマトの様子を見ていると諦めずに翻訳して良かった、と達成感が込み上げてきた。

そうして迎えた当日。ヤマトに返すCDと歌詞を綺麗に書き直した紙が入った封筒が入った紙袋を持って待ち合わせ場所で待っていると、遠くから走ってくる人影が見えた。
「丈!」
丈の名前を呼んで走ってきたヤマトはあの時と同じように嬉しそうな顔を浮かべて走ってきた。学校から走ってきたのか、丈の前に来ると随分と息が上がっていて、汗がじんわりと浮き出ていた。
「走ってこなくても良かったのに」
「だって、ずっと楽しみだったんだ。丈だって忙しいと思うから何も言わないようにしてたけど……その袋か?」
「あぁ、うん。ごめんね、長くなって」
そう言って丈はヤマトに紙袋を渡すと、嬉しそうに中を見て封筒を取り出した。
「これか?」
「うん」
丈の返事にヤマトはさらに目を輝かせて封筒を開いた。ヤマトがついに歌詞を見るとなると丈も緊張してくる。ヤマトに渡す前に何度も確認したから誤訳や行き過ぎた表現はしていないだろう。とはいえ、もしもの事があったら丈は今すぐヤマトに土下座をして謝らないといけない。封筒の中に入った紙を開き、紙に書かれた文字を見ている。しっかりと読み込もうとしているのか、ヤマトは黙ったまま青い瞳だけが小さく左右に動いていた。二人の間に静かな時間が流れ、丈は鳴りやまない心臓の音を感じながらヤマトが歌詞を読み終わるのを息が詰まりそうな気持で待っていた。
が、読み終わったヤマトの反応は意外とあっさりしたもので、一通り歌詞を読み終わると封筒の中に紙を戻して「ありがとう。本当に助かったよ」と言った。
「な、何か変なところとかあったかい?」
「え?」
丈の言葉にヤマトは目を丸くした。
「い、いや。別におかしなところが無かったなら良いんだ。僕もちゃんと見返したから大丈夫だとは思うんだけど。ちょっと心配でさ……」
はは、と丈は適当に笑って誤魔化した。言葉の意味が分からなくて丈に翻訳を頼んだのに、翻訳された言葉が正しいかどうかなんてヤマトが分かるはずがない、なんてことに気づいてしまったが、今更何も言えなかった。
「あー、いや。俺は英語が分からねぇし、丈が書いてくれた歌詞で別におかしなところは無いと思う。た、ただ……」
「ただ……?」
ヤマトは少し視線を反らして、頬をかいた。
「ただ、その。こんな感じの、恋愛ソングだったんだな、って……思って……」
そう呟いたヤマトの頬は少しだけ赤かった。
そんなヤマトの姿を見て、丈は思わず固まってしまう。確かに丈自身が今後言葉にすることは無いであろう愛の言葉ばかりが並んでいたが、世の中にある恋愛ソングと比べればさほど変わらないぐらいの表現を選んだはずだった。ただ、元の歌詞が過激であるゆえに少しロマンチックな言葉が多かったかもしれない。だが、だからと言って、そこまで照れるほどの歌詞ではなかったはずなのだが。
「その、なんかごめんな。こんな歌詞を翻訳させてさ……」
「別に構わないよ。僕も色々と勉強になったしさ」
「そ、そうか」
そういえばさ、とヤマトはこの話題から逃げるように別の話題を話し始めた。丈も特に止めることなくヤマトの話を聞いていたが、しばらくヤマトの耳は赤いままだった。

――もしかすると、ヤマトは丈が思っているほどに初心なのかもしれない。
その事実に気づいた時、丈の心臓がキュッと締め付けられるような感覚がした。いずれヤマトはこの曲の本当の歌詞と意味を知る機会が訪れるのかもしれないし、この曲と同等の、もしくはそれ以上の歌詞を目の当たりにする日が来るかもしれない。知ることは決して悪ではない。
ただ、どうかそれはまだ先の未来であって欲しい、と丈は静かに祈った。