二月十四日。バレンタイン。
子供の頃は親にチョコを貰ったりと何かと縁があったこのイベントも、大人になっていくほど遠ざかっていく。店では一ヶ月も前から関連商品を並べている姿を見るとバレンタインがいつなのか曖昧にさえなってくる。いつの間にかひな祭りの装いになっているのを見ると、自分が季節に置いて行かれているようで少しだけ切なくなるのも何回目か。だからと言って今更楽しむ機会もなく、結局一年がゆっくりと過ぎていく。なんとも味気ない一年だろうか。
だが、そんな一年を繰り返していた丈にも運というものが巡ってくるのだろう。珍しく仕事が休みであり、珍しく朝早くに目が覚めた頃。何となく付けたテレビでは「まだ間に合う!バレンタイン特集」というタイトルで都内のオシャレなチョコレートが紹介されていた。
バレンタイン。そうか、今日はバレンタインか。
コーヒーをゆっくりと啜っていた口が止まる。ヤマトと二人で暮らしている部屋に今、ヤマトはいない。仕事に出かけていく姿を寝ぼけまなこで見送ったのを覚えている。恐らく帰ってくるのはいつもどおり夜だろう。それだけの時間があれば、バレンタインチョコを用意できる。
丈はコーヒーを置いてソファから立ち上がった。こういう事は思い立った時にやらないと進まない。外に一切出る気が無く寝起きでボロボロな姿を、ある程度人に見られても恥ずかしくないように身支度を整えると、丈は家を出た。
***
「おぉ……」
のどかな空気が流れる昼過ぎ。買い物を終えて来た丈がキッチンに並べたのは既に出来上がった市販のチョコレートではなく、溶かして作るのに便利という割れチョコレート。そこに並んで卵、薄力粉、バター、ココアなどの食材。その他にも百円ショップで購入した泡だて器などが並んでいた。目にしたことはあるものの、実際に購入することがなかった物達に自然と心が躍っている。日頃、料理の九割をヤマトに任せっきりの男が一人で作ろうしている。そう思うと、踊っている丈の心はワクワクだけではなく不安というスパイスも混ざっているのかもしれない。
とはいえ、丈もいきなり難しいものは作らない。移動中の電車の中で見た『初心者でも簡単なチョコレートスイーツ集』の中からブラウニーを選んだ。丈が見つけたレシピ曰く「混ぜて焼くだけ」だそうだ。丈からすればそれだけで済むとは思えないのだが、ブラウニーという名前の響きや出来上がりの写真を見るとかなりバレンタインとして出すには最適な気がした。そこから降りた先のモールで様々な材料、道具を買い揃え、ついでに昼飯を済ませて帰ってきた。
腹ごしらえ、十分。やる気、十二分。しっかりと手洗いをして清潔面もしっかりと保証した丈のバレンタインクッキングが始まった。
まずは、下準備をするらしい。料理をするための下準備は料理とは言わないのか?と思いながらもスマホに表示させたレシピ通り、薄力粉とココア、ベーキングパウダーの粉をふるう作業を始める。はかりで量った粉を一つにまとめて網でふるう。パラパラと雪のように落ちていく粉は先ほどよりもふんわりと空気をまとったようにボールの中に落ちていき、三つの粉がバランスよく混ざった綺麗なベージュ色の粉が出来上がった。ボウルからややはみ出て落ちてしまった粉があるものの、割と綺麗に出来たのではないか?と安堵の息を吐く。オーブンを百七十度に温める必要があるらしいが、ここはオーブンレンジの説明書を見ながらなんとか出来た。
「よし、次は……」
ようやく下準備が終わり、スマホをスワイプして次の工程を見ると、次はチョコとバターを溶かして混ぜるらしい。比較的簡単な工程に、このままいけば順調に終わるんじゃないか?と浮足立っていた自信が、とある一文で冷静になっていった。レシピには「チョコとバターを耐熱性ボウルに入れて、レンジで加熱して混ぜる」と書かれていた。我が家にはオーブンとレンジの機能を一つに集約した大変優秀な「オーブンレンジ」というものを置いている。ヤマト曰く、これ一つで大体の事が出来てとても便利だと太鼓判を押されており、丈自身も食べ物を温める点においては大変助かっている。そして、その優秀なオーブンレンジはついさっき、丈が説明書片手に余熱をかけている真っ最中だ。
「…………」
一旦、大きく深呼吸をした。料理にはいつだって落ち着きが大切だ。深く吸い込み、深く吐いた息はため息へと変わる。このレシピはオーブンレンジを使っている人間の事を考慮していないのだろうか。とはいえ、丈が最初に全てのレシピを読み込んでおけばこうならなかったのも事実である。余熱真っ最中のオーブンレンジを一度中断してレンジとして活用して、果たして上手く溶かせるのか。そもそもオーブンの余熱は中断していいものなのか。ここにヤマトがいればこんなトラブルなんて起きるはずがなかっただろうが、泣き言を言っても仕方ない。丈は自身を奮い立たせると、スマホを手に取って調べる。要はこの二つを溶かして混ぜればいいのだ。レンジを使ったやり方は比較的簡単だろうが、他のやり方だってあるだろう。
スマホを操作し数分、丈が辿り着いたのは湯煎での溶かし方だった。お湯の入ったボウルの上にチョコバターが入ったボウルを重ね、混ぜていくことでお湯の熱で溶かしながら混ぜていく方法らしい。これなら丈にも簡単にできるだろう。早速鍋に水を入れて火にかける。次も同じ失敗をしないようにあらかじめ湯煎方法を確認したが、沸騰させてはいけないらしい。五十~六十度のお湯で溶かしていかないとチョコの風味が消し飛んでしまう、と書かれていた。生憎温度計は無いものの、鍋の底から少しずつ泡が出てきた辺りが目安らしく、丈は見逃さないように静かに鍋を見つめる。
しばらくすると、鍋底からふつふつと泡が浮き出てきた。そろそろだろうか。ボウルを新しく準備してゆっくりとお湯を移していく。ほんのり温かい蒸気が頬を撫でた。予め材料を量って入れておいたボウルをゆっくりと重ね、やや不安定なボウルが倒れないよう慎重に混ぜていく。最初はパラパラとしていたチョコがゆっくりと溶けてきた頃、バターも同じようにじんわりと溶けて混ざっていき、とろみのあるチョコレートが出来上がった。成功だ。ボウルをゆっくりと取り出して安堵のため息をつく。一時はどうなるかと思ったが、なんとか溶かすことが出来て一安心した。
次は卵、砂糖、牛乳を量って混ぜる。これも湯煎という難関な作業を乗り越えた丈にとってはどうってことない。卵を割るのがややおぼつかなかったものの、手早く量って混ぜればあっという間に完了だ。あとはこれらを順番に混ぜ合わせ、型に流し込んで焼くだけらしい。長いと思っていたブラウニーの道のりもようやく終盤に差し掛かってきたが油断は出来ない。丈はもう一度気合を入れ直し、スマホのレシピをよく確認しながらゆっくりとボウルに材料を流し込んで混ぜていく。それぞれ色も形も違った材料たちが混ざり合い、綺麗な茶色の液体が出来上がる。ラムエッセンス、というこれっきり使う事が無いような小さなボトルに入った液を数滴垂らすと甘い香りが鼻孔をくすぐる。いわゆる香りづけのようなものなのだろう。しっかりと混ざるようにヘラで何度も混ぜ合わせ、重いとろみがついた焦げ茶色の液体が出来上がった。型はオーブンレンジには付属していない上に家の中に無かったような気がしたので、百円ショップで買った使い捨ての型に流し込むことにした。零れないように丁寧に流し込み、ボウルに残った液体をヘラで掬いながら偏りがある部分をヘラで整えると綺麗な形になった。オーブンレンジの様子を見に行くと既に温め終えたのか、加熱時間を選択できるようになっていた。予め避けておいた天板の上に型を載せると、慎重にオーブンレンジの中に入れていく。余熱で温まったオーブンレンジは触ればやけどしそうな熱気が籠っている。ふたを閉め、二十分加熱の設定をしてボタンを押した。ピッ、と軽やかな音が鳴った後、低く唸るような音が聞こえ始め、丈は大きく息を吐いた。
(あとは焼けるのを待つだけ……か)
普段、お菓子作りどころか料理もろくにしてこなかった丈だったが、無事に終えることが出来て安心した。後はブラウニーの焼き上がりを待ち、切り分けてヤマトの帰りを待てばいいだけだ。バレンタインに手作りブラウニー。今思えば少し重たいプレゼントではないかとも思うが、ここまで作ってしまえば達成感の方が勝っている。ヤマトに自分でも料理が出来るのだと、ブラウニーぐらいならば作れるのだと誇りたい気持ちにさえなってくる。洗い物を全て終えてオーブンレンジの様子を見るが、もう少し時間が掛かるようだ。
「ちょっと休憩、かなぁ」
丈はうん、と背伸びをして時計に目を向けると、午後四時過ぎを指していた。昼過ぎに始めたはずなのに、気づけばあっという間に夕方になっている。いつもなら一日勉強をしているか、眠ってしまっているかのどちらかで浴びる夕焼けは悲しいものがありつつも、今日の夕焼けは少し違ったように思えた。ブラウニーが焼きあがるまでの時間、丈は家事をしながらゆっくりとした時間を過ごした。
***
「あ、あれぇ……?」
丈は眉を寄せて首を傾げていた。目の前にあるのは写真に比べ、明らかに黒く焦げてしまったブラウニー。途中で難所があったもののレシピ通りに進んでいたはずだったのだが、オーブンレンジの中から出てきたものは黒焦げの塊だった。
元々こういうものなのだろうか、と思いもう一度画像を見てみるものの、明らかに黒い。やっぱり焦げている。
ここまで焼けていれば意味がない気もするが、竹串を刺して焼き加減を確認した後に型から取り出して包丁で切り出す。焦げているように見えるだけかもしれない、と半ば祈るように包丁を通したが、ザク、と焦げた部分が割れるような音とひび割れた表面が現れる。丈は情けないため息をついて包丁を置いた。
時計を見ると午後六時にさしかかろうとしている。実は焼き時間を待つ間に家事を終えて休憩するつもりが少し眠ってしまっていた。今から市販のチョコを買いに出てもヤマトの帰宅までに間に合わないだろう。それにこのブラウニーをヤマトにバレないように隠す必要がある。
「どうしよう……」
「何がどうするんだ?」
突然、耳元から聞こえる聞きなれた声に、丈は叫び声をあげる余裕もなく声がした方を見る。そこには仕事を終えて帰ってきたヤマトが立っていた。
「ヤッ……!?」
驚きで喉元が詰まり、名前を呼びたかったはずの声は情けない音になって空気が漏れた。当の本人は丈の反応を特に気にすることなく「ただいま」と呟いて黒焦げのブラウニーへ視線を向ける。
「なにこれ」
「あッ……!えっと、これは」
「ブラウニー……か?」
「い、いや、まぁその予定だったんだけど、その……」
黒焦げになった塊を見てブラウニーと当てられたヤマトに少し感心しながらも、失敗したものを見られてしまった事実に言葉が続かない。また今度、ちゃんとしたものを買ってくればいい。今日あげられなかったのは少し悲しいが、これをヤマトにあげる訳にはいない。丈はそう言おうと口を開きかけた時だった。
「……一個食べていいか?」
ヤマトの言葉に丈は目を見開いて首を横に振り、咄嗟にブラウニーが乗ったまな板を自分の手元に寄せた。
「え!?だ、ダメだよ。丸焦げだし、苦くて美味しくない」
「それは俺が食って決めるから」
ヤマトはずらされたまな板に手を添える。無茶苦茶だ。
「決めなくても見たらわかるって……あぁ!」
丈の制止も聞かず、ヤマトは切り取られたブラウニーを手に取って口に入れた。止めようと反射で伸ばした手はそのままに、今更出せとも言えず咀嚼を繰り返し喉元から下へ落ちていくのを恐る恐る見つめていた。ヤマトの瞳が少しだけ大きくなる。
「うん、美味い」
「えっ、嘘だ」
「嘘じゃない」
「だって焦げてるし」
「焦げてても美味いさ」
「そんな訳ない」
「美味いよ。だって、俺の恋人が俺を思って作ってくれたお菓子が美味くないわけないだろ?」
青色の瞳が丈を静かに見つめ、笑う。優しい眼差しから、ヤマトの言葉に嘘偽りがなく、これ以上何も言わせないと訴えているようだった。丈は僅かに視線を逸らし、キュッと結んだ唇を緩めて諦めたように小さく息を吐いた。
「なら、まぁ、良いけど……」
「あぁ。ありがとな。すっげぇ嬉しい。大変だっただろ」
「初めてだったからね。色々あったけど、何とか。でもヤマトが喜んでくれたなら――」
良かった。そう言いかけた言葉が消える。丈はぐっと胸元を寄せられ、唇から柔らかい感触が伝わった。光に反射して輝くものがまつ毛だと気づき、ほのかに甘い香りを感じた頃には唇に余韻だけが残っていた。
「悪い。今、手持ちが無くて」
そう言って笑うヤマトに、気づけば丈は腕を引き寄せてからもう一度重ね合わせていた。さっきよりも濃く感じる甘い香りはどっちからなのか分からない。
「……足りない」
口から漏れ出た言葉に羞恥心はありつつも偽りではない。今まで触れ合えなかった間に溜まっていたものを堰き止めていたのに、それを外したのはヤマトだ。ヤマトは目を丸くした後に小さく笑い、丈の頬に振れる。
「そうだな。もっとしないとな」
頬に触れた手は首へと回り込み、3度目のキスをする。それは焦げ付いたブラウニーの苦みが恋しく感じるほどに甘くて深い味だった。
